「家事を手伝う」という言葉は寂しいと伝えた
今日は食後の皿洗いをしている所に、彼がやってきて皿洗いを一緒にしてくれた。
「お手伝いしに来た」と彼は言ってくれた。
なんて事ない言葉だけど、家事というものにおいての「お手伝い」には、プライヤーではなくサポーターであるってニュアンスを私は感じる。
子供の頃は主体的に家事を行う側ではなかったので「お手伝い」という形で参加していた。
でも大人になって暮らし始めると、全ての家事においてプレイヤーの立場に移行する。主体的に家事を行うようになると「手伝う」というスタンスも自動的に消滅すると私は思っている。
だから、良かれと思って「手伝う」と言ってくれているとしても、「メインはあなたであくまで僕はサブ」という姿勢を感じてしまうのだ。
皿洗いしながら「お手伝いという言葉は、私だけが仕事をしているように感じて寂しい」と伝えた。
深刻な感じではなく、さらっと。
「そっか、寂しいんだ」と反応してくれる。
私は自分が寂しいと感じるポイントを伝えたことで、満足した。
お互いに感じていること、考えていることがさっぱり分からなくなったら人間関係は終わりだと思うので、こういう小さいことから知っておいてほしいと私は思う。
相手の考えていることが分からなくなるのは突然のことではなく、「知ってるつもり」の積み重ねによるものなんじゃないかな。
いつの間にか、同じ方向に歩いてたはずがまったく交差しない道にそれぞれが立ってしまっているようなもの。それが私にとっては一番怖い事。
並んで歩いている最中に感じる感覚は、その時に伝えなければリアリティを持って伝わらないんじゃないかと思って、今日は伝えてみた。
得手不得手はあってもいい、出来る量や頻度が違ってもいい。けれども二人の生活において、プレイヤーとプレイヤーでありたい。
プレイヤーとサポーターでは、同じ空間で生活しているはずなのに遠くにいるように感じてしまう。
私は寂しさを置き去りにしたくないので、伝えてよかったと思うし、もしまた同じように感じることがあればまた伝えるだろう。
まとまりがなくなったのと、集中力が無くなったので、おしまい。