感情はウンコだと思って考えてみたら可笑しくなってきちゃった

人の話に同調して落ちこむのに愚痴を聞いて周り、他人の問題を自分ごとのように病んでいる友達がいる。


感情面で同調しないように私なりに気をつけた方がいい点を伝えると、曇りが晴れたかのような顔で「分かった!そうしてみる!」と返事をする。


だけど、次の日には何も無かったかのように他人の世話を焼いて勝手に落ち込んでいるから奇妙だ。


不満や感情を出すのが人一倍苦手なタイプなのに、自ら首を突っ込むのが不思議でならないし、面白いなーと眺めている。

正直どれだけ落ち込もうが知ったこっちゃないし、アドバイスしたところで実行する様子もないので、観察して面白がることにした。


この間も他人の別れ話に首を突っ込んで、本人以上に泣いて落ち込んでいた。勢いを追い越された当人はそれ以上は泣けなくなってしまった様子だった。





ところで、感情はウンコと同じだなと最近ふと思った。


自分の中に何かを取り込めば、否応なく必ず身体の中に作られる。

身体の外に出さないと具合が悪くなる。
摂取したものによって調子が左右される。


しっかり出し切れた時は気持ちがいい。


それに対して、感情が出せないというのは慢性的な便秘みたいなものだ。


トイレを我慢してたら硬くなってウンコが出なくなってしまうように、不満や感じている事を抑え込んでいると吐き出せなくなる。



感じている事を普段から意識的に小出しにしていればいいのだけれど、溜め込んでいると限界を振り切った時にいきなり爆発する。大惨事である。セルフトイレ我慢大会を開催した末に漏らすのだから救いようがない。


先の友達はまさにそういうタイプで、かつての自分にも身に覚えがある。


けれども、他人にあそこまでお節介を焼いて同調して落ち込むというのは私にはないパターンなので、とても奇妙で興味深い。



他人の感情なんて体に合わないのはわかっているのに、我先に手掴みで食べてはお腹を壊しているように見えて、本当に奇妙なのだ。


しかも吐き出しが出来ないメンタル便秘体質なのに、大食いYouTuberか?というくらいに短時間で大量に取り込んでいる。そして、後からとんでもなく具合が悪くなるのまでがワンセット。



自分の慢性便秘体質をどうにかするのが先だろうに、なぜ他人のウンコを手伝っているのかと思うと滑稽で仕方なくなってきちゃった。


もう何度もそういうことを繰り返しているので、中毒みたいなもんだなと思って放っておくことにした。


感情はウンコだ。一人で淡々と出すものだ。



汚い表現だけど感情はウンコだと思ったのがしっくりきて、人間の矛盾や滑稽さと個人的にマッチしたので書いてみた。眠いのでおしまい。

「家事を手伝う」という言葉は寂しいと伝えた

今日は食後の皿洗いをしている所に、彼がやってきて皿洗いを一緒にしてくれた。


「お手伝いしに来た」と彼は言ってくれた。


なんて事ない言葉だけど、家事というものにおいての「お手伝い」には、プライヤーではなくサポーターであるってニュアンスを私は感じる。


子供の頃は主体的に家事を行う側ではなかったので「お手伝い」という形で参加していた。


でも大人になって暮らし始めると、全ての家事においてプレイヤーの立場に移行する。主体的に家事を行うようになると「手伝う」というスタンスも自動的に消滅すると私は思っている。


だから、良かれと思って「手伝う」と言ってくれているとしても、「メインはあなたであくまで僕はサブ」という姿勢を感じてしまうのだ。


皿洗いしながら「お手伝いという言葉は、私だけが仕事をしているように感じて寂しい」と伝えた。


深刻な感じではなく、さらっと。


「そっか、寂しいんだ」と反応してくれる。


私は自分が寂しいと感じるポイントを伝えたことで、満足した。


お互いに感じていること、考えていることがさっぱり分からなくなったら人間関係は終わりだと思うので、こういう小さいことから知っておいてほしいと私は思う。


相手の考えていることが分からなくなるのは突然のことではなく、「知ってるつもり」の積み重ねによるものなんじゃないかな。

いつの間にか、同じ方向に歩いてたはずがまったく交差しない道にそれぞれが立ってしまっているようなもの。それが私にとっては一番怖い事。


並んで歩いている最中に感じる感覚は、その時に伝えなければリアリティを持って伝わらないんじゃないかと思って、今日は伝えてみた。


得手不得手はあってもいい、出来る量や頻度が違ってもいい。けれども二人の生活において、プレイヤーとプレイヤーでありたい。


プレイヤーとサポーターでは、同じ空間で生活しているはずなのに遠くにいるように感じてしまう。


私は寂しさを置き去りにしたくないので、伝えてよかったと思うし、もしまた同じように感じることがあればまた伝えるだろう。


まとまりがなくなったのと、集中力が無くなったので、おしまい。

旅の目的を交流にシフトさせる

今私は都会でパートナーと暮らしている。

彼は都会暮らしと今の仕事に嫌気が差し、自然豊かなある地方へ将来移住したいという話し合いを二人の間でしている。


その地方に何度かドライブする機会を作った。


観光名所よりも山道や清流を楽しみ、現地の自然を感じて気持ちをリフレッシュすることを中心にして様々な地域を訪れ、私たちは更に魅了されていった。



行きつけの店で、その事について彼が友人と話していた。


私は少し離れたところにいたのだけれど、「現地の人たちの暮らしを見るように回ってきた」と話してるのが、たまたま耳に入った。


彼の目線ではそうだったんだなと思うと同時に、「暮らしを知ることに重心をおくなら、私だったらこうするな」と思った事があるので、忘れないように書いておく。


というのも最後の旅は現地でゲストハウスを開いた人と話す機会が生まれたけれど、その地の暮らしを深く知れるほどではなかった。


移住経験者の方の発信で
「田舎暮らしにおいての情報は、インターネットだけでなく現地の人たちとの交流から得るものが有用と」と言っていたのを覚えている。



また田舎移住支援のサイトでは現地で暮らすのインタビューが多数ある。現地で就職しただけでなく、移住ののちに開業したひとや継業した人がいる事を知る。


その中でも店舗やゲストハウスを開いている人には会おうと思えば会える。


自分たちから情報を得る姿勢でまたあの地を訪れるのであれば、そういった人たちのお店でサービスを購入し、積極的に通って交流を持つ必要があると思った。


どこへ行くかは先の移住支援のサイトから候補をピックアップし、交流しにいくことをメインにして巡る計画をあらかじめ立てることが必要だと思う。


また、クリアにしたい疑問を先にまとめておく必要もあるだろう。


今までは行き当たりばったり、翌日の計画を宿泊先で気分で決めるという形だったので、「暮らしを知る」という感覚ではなかった。


次に向かう際には旅行という感覚ではなく、情報収集の旅にしたいと思う。

お金が無いではなくて、1円でも入ってれば余ってるって言うことにする

財布にお金が1円でもあれば、お金が余ってるって認識するようにする。毎日そう認識する練習というか、実験というか。自分の心境に変化があるかを見てみたい。


「使ったから無くなった、減った」と思うか、
「使ったけどまだまだ余ってる」と思うか。


私は貯金をしようとして苦しんで貯めるより、楽しんで貯めるほうがいい。なんなら貯めようと無理するのではなく、なんか知らんけど使っても余ってるなあって状態が最高だと思う。



今日もなんだかんだで余ってる、ラッキーって思うようにする。出してもまだ余ってる、それはありがたいことだな。余ってると思うと、ほっとする気持ちにシフトしやすいなって気がついた。今まで使ってきたけど完全なるゼロにはなった事はなんだかんだ無かった。



お金に限らず「ある」にフォーカスしたほうがいいのは頭では分かってたけど、お金に関してはなんか飲み込めない感じがあって、なかなか「ある」と認識しづらかった。


「あるけど、十分では無い」っていうのが強かったのかな。


でも、「使ったけど、余ってる」のほうが私的にはしっくり来たから、これからはそう思うようにする。


今日も私のもとにお金が余っている。

家事を一人で抱え込んでいることにモヤモヤしてたけど、ひとことでそれが溶けた話。

うちでは、家事は基本的に私がやっている。同棲している彼は家事に協力的ではあるものの、大体は私が中心になってやっている。彼は料理があまり出来ないので、夕飯は必ず私が作る。

 

 

私自身、料理は嫌いではない。けれども、作ったあとの「盛り付けて食卓に運ぶ」というプロセスがどうやら私は嫌いらしい。お玉に張り付くわかめに軽くイラつきながらみそ汁を器によそうのが常だ。

 

 

家事は様々なプロセスの集合体であって、その中に自分の嫌いなパートがなにかしらある。料理でも、洗濯でも、掃除でも、ごみ出しでも、「この作業がめんどくさいんだよな~」と思いながらも仕方なくこなすことが多い。

 

 

それらのタスクは毎日発生する上に、それぞれが延長線上でつながっていたりするので「ああ、家にいる限り、家事って終わりがないなあ」とふと感じて、その事実にここ最近の私は疲れていた。

 

 

夕飯を作るためにキッチンに立ち、食事の時間はせいぜい15~20分。少しの間休んだら、洗い物をする。それが済んだらキッチン回りの汚れをふき取り、調理の際に出たごみを捨てる。次の日がごみ収集日であれば家中のごみをまとめて夜のうちに捨てに行く。こうして一連の作業をこなすと、落ち着いてゆっくり座れるまでに結構な時間が経っている。

 

 

その間、彼は仕事で疲れているだろうと思って休んでもらっているのだけれど、確実に私の中にはモヤモヤがたまっていることに気がついた。

 

 

私が家事を終えて「疲れた」と言えば彼は必ずねぎらってくれるし、ご飯を作ったときにはいつも必ず感謝してくれる。でも、一人でせっせと動き回っている時間に対して、さみしさを覚えていることに気が付いた。

 

 

家事は彼の見えないところでの作業がほとんどで、どんな気分で日々の家事を行っているのかについて、私はもっと彼に知ってほしいみたいだ。「疲れた」だけでは表せない、私が感じている気持ちをもっと話したいんだ。

 

 

「ここは好きだけど、ここは嫌いな部分。この作業があるからこの家事が億劫になるんだよなあ」なんてこと、私が話さなければ彼には知る由もない。

 

 

今日も夕飯の後片付けをして、いつも通り面倒だと思いながらも、ごみ箱のごみをまとめていた。

 

「なんで私はこれを一人でやってるんだろう」

 

面倒であると同時に、さみしいと感じた。

 

 

いつもならそれでも一人で全部やってしまうのだけど、今日はリビングでくつろぐ彼に「そっちのごみをまとめて」と声を掛けた。「はいはい~」とすぐに動いてくれたので、大きなごみ袋にまとめて袋の口を縛るまでお願いしてやってもらった。

 

 

前の回収日に出しそびれたごみがあったので、2つの大きなごみ袋をせっせと玄関に運んでごみ捨て場に出る準備をしていた。腕力があるほうではないのでさすがに2つを持って行くのは重たい。

 

 

玄関のドアを開ける前に「一人でこれをやってることがさみしい」という気持ちが、ここでも湧いてきた。彼は既にリビングに戻っていたけど「一緒にごみ捨てに行こう」と声をかけたら、すぐに動いてくれた。

 

 

「やった、誘ってくれた!」

「ごみ捨てデート行こう」

 

なんて、嬉しそうに着替えながら言うものだから笑ってしまった。

 

 

なんだ、もっと前に素直に言えばよかった。なんなら誘ってほしかったんかい。

 

 

ごみ捨てデートなんて聞いたことないし、字面もかわいくないけど、こんなこともデートにしてくれる彼が好きだなあと嬉しくなった。

 

 

私ばかりが動いてる中で寝転んでてちょっとはうしろめたさを感じてくれよな、あわよくば何も言わずとも手伝いにきてくれよな。そういう思いがなかったわけではない。なんなら聞こえよがしにため息ついてたり、やだねぇ。

 

 

けれども、その言葉でそんな気持ちも溶けていった。

 

私が何も言わずに一人でこなしていることで、勝手に不満をためていたんだなあと思うと同時に、向こうは向こうでさみしさを感じてたのかもしれない。

 

お互いの見てる世界は全く違う。

 

日々どう動いているか、すべてを把握してくれとは思わないけれど、一緒に家事をこなすことでそれを知ってほしいし、家事についてもっと話したい。

 

 

同じ空間にいるだけじゃない、生活を共にしているという実感や、彼との間に細かな接点を増やすことが自分の安心感につながるなと感じた出来事だった。

 

 

ふと湧いてきたさみしさを、無視しなくてよかった。えらいぞ、自分。

 

 

今度は逆に私からごみ捨てデートにして誘ってみるかな。