家事を一人で抱え込んでいることにモヤモヤしてたけど、ひとことでそれが溶けた話。

うちでは、家事は基本的に私がやっている。同棲している彼は家事に協力的ではあるものの、大体は私が中心になってやっている。彼は料理があまり出来ないので、夕飯は必ず私が作る。

 

 

私自身、料理は嫌いではない。けれども、作ったあとの「盛り付けて食卓に運ぶ」というプロセスがどうやら私は嫌いらしい。お玉に張り付くわかめに軽くイラつきながらみそ汁を器によそうのが常だ。

 

 

家事は様々なプロセスの集合体であって、その中に自分の嫌いなパートがなにかしらある。料理でも、洗濯でも、掃除でも、ごみ出しでも、「この作業がめんどくさいんだよな~」と思いながらも仕方なくこなすことが多い。

 

 

それらのタスクは毎日発生する上に、それぞれが延長線上でつながっていたりするので「ああ、家にいる限り、家事って終わりがないなあ」とふと感じて、その事実にここ最近の私は疲れていた。

 

 

夕飯を作るためにキッチンに立ち、食事の時間はせいぜい15~20分。少しの間休んだら、洗い物をする。それが済んだらキッチン回りの汚れをふき取り、調理の際に出たごみを捨てる。次の日がごみ収集日であれば家中のごみをまとめて夜のうちに捨てに行く。こうして一連の作業をこなすと、落ち着いてゆっくり座れるまでに結構な時間が経っている。

 

 

その間、彼は仕事で疲れているだろうと思って休んでもらっているのだけれど、確実に私の中にはモヤモヤがたまっていることに気がついた。

 

 

私が家事を終えて「疲れた」と言えば彼は必ずねぎらってくれるし、ご飯を作ったときにはいつも必ず感謝してくれる。でも、一人でせっせと動き回っている時間に対して、さみしさを覚えていることに気が付いた。

 

 

家事は彼の見えないところでの作業がほとんどで、どんな気分で日々の家事を行っているのかについて、私はもっと彼に知ってほしいみたいだ。「疲れた」だけでは表せない、私が感じている気持ちをもっと話したいんだ。

 

 

「ここは好きだけど、ここは嫌いな部分。この作業があるからこの家事が億劫になるんだよなあ」なんてこと、私が話さなければ彼には知る由もない。

 

 

今日も夕飯の後片付けをして、いつも通り面倒だと思いながらも、ごみ箱のごみをまとめていた。

 

「なんで私はこれを一人でやってるんだろう」

 

面倒であると同時に、さみしいと感じた。

 

 

いつもならそれでも一人で全部やってしまうのだけど、今日はリビングでくつろぐ彼に「そっちのごみをまとめて」と声を掛けた。「はいはい~」とすぐに動いてくれたので、大きなごみ袋にまとめて袋の口を縛るまでお願いしてやってもらった。

 

 

前の回収日に出しそびれたごみがあったので、2つの大きなごみ袋をせっせと玄関に運んでごみ捨て場に出る準備をしていた。腕力があるほうではないのでさすがに2つを持って行くのは重たい。

 

 

玄関のドアを開ける前に「一人でこれをやってることがさみしい」という気持ちが、ここでも湧いてきた。彼は既にリビングに戻っていたけど「一緒にごみ捨てに行こう」と声をかけたら、すぐに動いてくれた。

 

 

「やった、誘ってくれた!」

「ごみ捨てデート行こう」

 

なんて、嬉しそうに着替えながら言うものだから笑ってしまった。

 

 

なんだ、もっと前に素直に言えばよかった。なんなら誘ってほしかったんかい。

 

 

ごみ捨てデートなんて聞いたことないし、字面もかわいくないけど、こんなこともデートにしてくれる彼が好きだなあと嬉しくなった。

 

 

私ばかりが動いてる中で寝転んでてちょっとはうしろめたさを感じてくれよな、あわよくば何も言わずとも手伝いにきてくれよな。そういう思いがなかったわけではない。なんなら聞こえよがしにため息ついてたり、やだねぇ。

 

 

けれども、その言葉でそんな気持ちも溶けていった。

 

私が何も言わずに一人でこなしていることで、勝手に不満をためていたんだなあと思うと同時に、向こうは向こうでさみしさを感じてたのかもしれない。

 

お互いの見てる世界は全く違う。

 

日々どう動いているか、すべてを把握してくれとは思わないけれど、一緒に家事をこなすことでそれを知ってほしいし、家事についてもっと話したい。

 

 

同じ空間にいるだけじゃない、生活を共にしているという実感や、彼との間に細かな接点を増やすことが自分の安心感につながるなと感じた出来事だった。

 

 

ふと湧いてきたさみしさを、無視しなくてよかった。えらいぞ、自分。

 

 

今度は逆に私からごみ捨てデートにして誘ってみるかな。